Taklamakan

ぐったりした日常の断片

コンテンツに自己を埋没させないで

コンテンツ=自分自身?

 コンテンツを自らのアイデンティティとして扱ってしまう、というようなことは、オタクを自認しているひとびとの子ども時代に起こったこととして珍しくないのではないかと思う。私自身もまさにそうだった。コンテンツと自己が癒着した状態に陥ると、コンテンツへの批判もまるで自分自身が批判されたように感じてしまう。

 しかし、その状態では批判や批評という行為を行うことは困難だ。なぜならコンテンツが自分自身となっているからだ。批評ができないということは、コンテンツ及び作品を客観視できない、ということにつながる。ひとたびコンテンツの批判=自分自身への批判という構図ができあがってしまうと、批判のひとつひとつが自身に突き刺さってきてしまう。それは「コンテンツを愛することへの苦しさ」につながる。そこから抜け出すには時間も労力もかかる。

 コンテンツと真に向き合うことは、コンテンツと自己を切り離すことができてからはじめて成立する。誠実さとは、無批判であることでも、盲信的であることでもない。むしろ批判的な姿勢でいなければ、作品にとって失礼なことだと私は考えている。この世に完璧なコンテンツなど存在しないのだから。

コンテンツをひとつの人格のように捉えてはいないか

 また、コンテンツの分解ができていないと推測されるケースを見ることがある。特にアニメーション作品では広報・グッズ制作・雑誌等の描きおろしビジュアル制作などおそらく全て違う管轄で行われているが、同一視しているケースがあるように思う。やはりその場合も、コンテンツと自己の癒着が同時に発生していることが多いと感じる。

 そして、コンテンツとファンダムを同一視してしまうことも、同じく「苦しさ」の一因になるのではないだろうか。「民度」ということばが使われることがあるが、それはまさにファンダムをコンテンツの一部とみなしているからこその表現だと考える。参加型コンテンツだと特に、完全に切り離して考えることは難しいが、それでもひとつひとつの要素を分解してつぶさに見ていくことは可能だ。「ここは嫌だけど、ここは好き」ということが言語化できたならば、それは批評への第一歩だと私は思う。

コンテンツと自己の切り離し方

 ここからが本題だが、いかにコンテンツと自分自身を切り離していくか、ということについて、私は「自分自身のことばを持つこと」が必須であると考えている。なぜなら、私自身がそうであったからだ。論拠が弱すぎるだろ!ということは随筆なので勘弁してほしい。いま逃げ道をつくりました。とにかく、コンテンツそのものが自身のことばになっている状況を変えてほしいと思うのだ。そのために、「自分自身のことば」を獲得するのが方法のひとつとして挙げられると思う。

 私自身がおこなった方法は、「ミームやスラングをいっさい使わない」ということだ。これは「コンテンツと自己を切り離してやろう」と狙ってやったわけではなく、ただ「自分自身のことばで話したい」という気持ちが非常に強まったから、という理由で実践した。それは「言いたいことがあるのに言えない」というフラストレーションが爆発したことに起因している。たまたまそれが功を奏し、もろもろいい感じの方向に転がっていった。

 たとえば旧Twitterだけではなく、完全にクローズドな場で文章を書いてみる、ということからはじめてみると、ミーム漬けの脳みそから脱却する手がかりになるのではないだろうか。はじめはたぶん難しいけれど、慣れてくるとけっこう楽しくなってきたりもする。コンテンツの他者化というものを意識せずとも、あ、離れてきた、という感覚が得られるようになるかもしれない。べつにコンテンツの話をしなくてもいいし、たんなる日記を書くのもよいと思う。ただし自分のことばで書くことを忘れてはいけない。

 自分のことばというものは、きっと誰もがもっているはずだ。うまく出力できないだけ、あるいは忘れているだけで、人間という存在が肉体に依存している以上は完全に消えてなくなることはない。主観、自我というものが存在していることを思い出してほしい。それを忘れてしまうのは、きっと淋しいことだと思う。自分自身を埋没させてやらないでほしい。あなたはかならずそこにある。