Taklamakan

ぐったりした日常の断片

心の故郷がもうとっくに消え失せていたというはなし

Taklamakan(サムネ用画像 題字:吉海こすず)

 睡眠リズムが完全に狂っているので、午前三時に目が覚める。そのまま二度寝すればいいのに、スマホを眺めて完全に覚醒する。今日は曇りだ。階段の横にある小窓から外を見る。湿り気を含んだ土の匂いが鼻の奥を突き、安心したような気分になった。それは私の知っている田舎の匂いとまるきり同じだった。
たぶんこれから先あの場所へ行くことはない。行かないって決めたから。あの家はもう、私の居場所ではなくなった。

 私にとっての「こころのふるさと」は、東北の田舎にある祖父母の家である。小学生のころの夏休みといえば、田舎の家に泊まりに行くことがいちばんの楽しみだった。そこに二つ年上のいとこが来ると、もうそれ以上の喜びはなかった。子どもの二年というのは驚くほど有意な差で、いとこのことはずいぶん大きなお姉さんに見えたものだ。じっさい、今でもそう思っている。現在進行形で私にはとてもよくしてくれるし、気が利いて優しくてちょっぴり鋭角なユーモアをもつ、すてきなお姉さんだ。ファッション好きでメイクもばっちり、もしも同じクラスにいたとしたらひとことも会話せずに一年が終わるであろうタイプである。血縁関係があるというだけで、本来人生が交わりそうもない人間と付き合いが続くのは不思議だなあと常々思う。きっと彼女は四六時中Twitterを見ないし、いきなり思い立ってこんな記事を書いたりしない。些細なことでむにゃむにゃと何を言っているんだこいつは、と思うかもしれない。そんないとこと一日中寸劇をして暴れ倒したり、現地で知り合った友だちと遊んだりもする、贅沢な子ども時代が私にもあった。東京に帰る前日の夜には、毎度涙を流していた。この世の終わりだと思うほど悲しかった。きっと彼女も悲しかったはずなのに、泣くなよ、また会えるから。いとこなのはずっと変わらないから、と励ましてくれた。ほんものの絶望があるとしたら私にとってきっとあのときだと確信しているのに、どうしてか幸福な記憶として残っている。思い出補正とはこういうことなのだろうか。思えば子どものころの自分はひどく繊細で、そのくせ苦しみを言語化することは難しかったから、いろんなところで深い悲しみに暮れていた。絶えず引っかき傷ができ、ぷつぷつと赤い血が玉になって浮かんでくるようなものだった。大人になったなあ、と思うことの一つとして、むかしは悲しかったであろうことも特に何も思わなくなったということがある。いい意味で鈍感になったと思う。あのまま大人になっていたら、きっと毎日が苦しくてたまらない。まあ、結局べつのところで苦しんでいるわけなのだけれど。
なぜ、そんなふうに強い思いを抱いている家に金輪際行かないと決めたのか。それは、田舎の封建的な価値観に染まったうえに昔風の無意味な厳しさを与えてくる祖母と、ゆるやかに縁を切ることを決めたからだ。非情な人間だと思われるかもしれないけれど、断絶は深いのだ。もちろん祖母が悪人だとは思わない。しかし、説明したところで理解してもらえない相手とは距離を取るしかないのである。泥の中にいるような毎日に、怒声を浴びせられるのはもうじゅうぶん。たったそれだけのことで、私は祖母に愛想を尽かした。

 今年の元旦は祖母とふたりで過ごした。ほかの記事でも述べたように、私はうつ病を患っている。それを祖母に理解してもらおうとは思っていなかったのだけれど、よくわからない理由で毎朝怒鳴りつけてくる祖母に「頼むから怒鳴るのはやめてくれないか、自分はいま精神的に追い詰められていてそうされると苦しい」ということを伝えても余計に怒鳴られるだけだったのだ。私はもうしばらくこの家で過ごす予定を変更し、翌日に帰ることにした。私の説明不足は否めないところがあるが、もはや根気よく説明する気力も親切心もなかったのである。こちらの記事を読んでいただいた方には言わずもがなであるが、祖母は私の母の実母である。宣言通り私は次の日の朝、高速バスに乗って帰京した。祖母はなぜ私がいきなり帰ってしまったのかまったく理解できていないようだった。こんな田舎じゃつまらないかもしれないけれど、これに懲りずにまた遊びに来てね、なんて言っていた。懲り懲りである。二度と行かねえ。いとこも来ないし。彼女はときどき、祖母に対して反抗的な態度を取っていた。あのころから祖母の理不尽さを見抜いていたのだろう。私はぼんやりした性格だから、言い返すほどのことかなあと思いつつスルーしていた。彼女は高校生になったあたりからあの家に来ることはなくなった。単純に忙しかったせいもあるけれど、彼女もなにか思うところがあったのかもしれないと今更ながら邪推する。東北出身の祖父が亡くなったのにもかかわらず、縁もゆかりもない土地で一人暮らしを続けている祖母には申し訳ないけれど、あなたとは母の法事以外で会うことはないでしょう。叔母さんにぜんぶ任せちゃう。ごめんね。

 話は変わるが父方の祖母もなかなかに手ごわい。御年91歳で、二年くらい前から認知症が進行し「泥棒が家に入った」「あれがない」などとものとられ妄想が日常的に起こっている。最近になってようやくホームへ入居し、都内にある祖母のマンションにはだれも住んでいない状態になった。それまでは父と伯父が、介護士さんの来ない土日にかわりばんこで祖母に薬を飲ませに通っていたので、介護の負担が大きかった。もともとわがままな性格の祖母なので、父は疲れ果てているようだ。泥棒が入った、洋服をとられた、などと祖母が騒ぐたびにそんなわけないだろうと咎めている。認知症の人がうったえることを否定してはいけない、ということはきっとわかっているはずなのだけれど、父もまた自分の母親に対して愛想が尽きているのかもしれない。ときには伯父と父のふたりに否定されていて、不憫だ。かつて祖母や父が住んでいたマンションは老朽化が進み、いまのところだれも住む予定がない。場所はいいので、買い手はつくだろう。私だって住みたいくらいすてきな部屋だ。しかし、私にはどうにもできないことである。

 ついでに言うと私の住む家、いわゆる実家も消滅することが確定している。持ち家ではなく賃借している家だからだ。
「ふるさと」とは私にとって「『家』と『そこに住まう人』」の記憶だと考えている。それらの消失は、そのまま故郷を失うことを意味する。グッバイ、もう行けない場所。行かない場所。過去の記憶にだけある場所。まだ存在はしているけれど、そこにあるのは期限付きの未来だ。ときどき、ひどく心許ない気分になる。根無し草の自分は、どうにかこうにかひとりで生きていかなくちゃならない。いとこにだって、万が一のときは頼らざるを得ないかもしれないけれど、それでも頼りっぱなしじゃいられない。
そもそもずいぶん先に訪れるであろう未来のことより、まず目先のことを考えるべきだ。とりあえず大学は卒業したい。いやもっと目先のことだ、これから朝ごはんを食べて講義に出席するんだろう。布団から出なさい!服を着替えて!顔を洗って!どうにか生活をやっていく。やるぞ、飯を食う、身なりを整える、ちゃんと眠る……こんな文章を書いている場合ではない。しかしいまの私にとっていちばん大切なことはこれなんだ。生活に追われちゃいけない、かといっておろそかにしてもいけない。とりあえず、目の前のものをしっかりと見つめていきたい。そろそろ本格的にまずい気がするのでスマホを閉じます。読んでくださってありがとう、あなたもよい一日を!

東北の祖母の家からちょっと離れたところの川の下流にいた、とんでもなくでっけー鳥


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