Taklamakan

ぐったりした日常の断片

花が嫌いなので、造花を買う

 母が亡くなってからというもの、お供えの花束をもらう機会が何度かあった。もちろん、母を悼んでくれるその気持ちはうれしい。これに偽りはない。

 しかし、私は花が嫌いだ。正確には、生花を部屋の中に置くという行為が心底嫌でたまらない。そのうち枯れて処分することが確定しているのに、なぜ花を愛でようという気持ちになれるのかわからない。花壇や、自生している花を眺めるのはまだわかるけれど、わざわざ切り取ってきたものを部屋に置くなんてとんでもないことだ、と私は考えている。あと単純に、葉っぱの匂いが好きではない。(統計があるわけではないのであくまで主観でしかないが)世の中は花をもらうとうれしい、という人間が多数派のようだ。少なくとも、「花を贈る」という行為がおおむねポジティブな意味合いを持つ文化の中にわれわれは生きている。でもよく考えてみてほしい。いきなり生命を押し付けられるんだぞ。そんな暴力的なことがあってたまるか。日々濁っていく水、それを目にすることも不快だが水を換えてやらないわけにもいかない。花が咲いているうちはまだしも、中途半端にしおれているときは半分ゴミになりかけているものが部屋に存在することになる。まだ捨てるほどではない、明日か明後日かな、もうちょい保つかな、なんて考えるだけで嫌すぎる。花が部屋にあるというだけで、憂慮すべきさまざまな事項が増えていく。花そのものがタスクの具現化であると言ってもいい。

 これは幼いころの経験から来ているものだと考えられるが、鉢植えなどをもらった日には憂鬱で仕方がない。毎日外に出して、水をあげて、風の強い日には部屋に戻して、そんなことは私には不可能に近い。日々のタスクでいっぱいいっぱいなのに、さらに花の面倒を見ることまで加わったらおしまいだ。そのうち外に出しっぱなしで枯らしてしまって、あー枯れてるな、でも片付けるの嫌だな、ともやもやしたまま数週間過ごす、ということが人生に何度もあった。こんなことはごめんだ。悪夢に近い。どうかだれも私に花を贈らないでください。この文章を読んだなら、よくわかってくださると思います。

 先日、IKEAをうろついていた際に、花瓶のコーナーが目に入った。ガラスや陶器でできたものは好きだ、あまり変質しないから。もはや花はいらないから花瓶だけほしいと思っていたら、造花が山盛りに置いてあるではないか。生花は嫌いだが、花がモチーフになったものはかなり好きなので、こいつはちょうどいい、と小さな花瓶とカーネーションの造花を2本一緒に買って帰った。母は花が好きだった。それなのに花をいっさい供えていないのも不服かもしれないと思ったので、仏壇の前に設置した。花の長さが同じだとちょっと変なのでハサミで長さを調整した。思いのほか簡単に切れて驚いた。これなら、ときどき埃を払う程度でお手入れが済む。ありがとうIKEA。大好きだIKEA。そのうちうっかりミスで購入した間接照明についても詳しく書きたい。今日はここまで。