Taklamakan

ぐったりした日常の断片

一度は殺したかった親が死ぬということ/「グレーゾーン」の発達障害児のいま

 はじめに(⚠よく目を通してから本文をお読みください)

 この記事には、人が亡くなる直前から直後の話が詳細に書かれている部分また他人に詰問されたときに投げかけられた言葉を詳細に記述した部分、パニック状態と希死念慮に関する描写があります。そのような話題が苦手な方、精神的に余裕がない方、トラウマを抱えている方などは本文を読まずにブラウザを閉じることを強く推奨します。また、医療に関する専門的な知識のない素人が主観で書いた文章になります。正しい情報を求めている方にはおすすめしません。読んだ後の苦情やアドバイスは一切受け付けません。ご了承ください。

 

 去年のいまごろ

 昨年の6月に、私の母は膵がんの診断を受けた。既に別の個所に転移していたため、自動的にステージ4ということになるらしい。本人から伝えられたとき、正直ものすごくびっくりしたけど、「そっか」とひと言そっけなく答えた。動揺していることを極力察せられたくなかった。自分の心が少し落ち着いたタイミングで、母の目を見据えて「旅行に行こうよ、どこに行きたい?」と尋ねた。

 

 母と私の関係性

 ここでいったん私自身と過去の母との関係性について、遡って説明する。2023年7月現在、私は都内在住の大学三年生で、そろそろ就活も視野に…とはとても言えない状況だ。単位は落としまくるし、まともに出席できない日もそこそこの頻度で訪れるし、そもそも休学期間もあるので少なくとも一年間は留年することが現時点で確定している。原因はうつ病である。きっかけは強いていえば2020年、コロナ禍の緊急事態宣言で、当時通っていた高校が二ヶ月ほど休校になったことだった。たったそれだけのことで、毎日が楽しくて仕方がない!嫌なことも一晩眠れば忘れちゃう!といった調子のいい人生が終了した。三年以上経ったいまでもめちゃくちゃ調子が悪い。どうしてここまで引きずっているのか?その一因は私の(かつての)家庭環境、また私の母にあると言わざるを得ない。

 母は大変おしゃべりで、質はともかく勢いと量だけで言ったらバラエティー番組に出演しているときの明石家さんまさんに匹敵するレベルである。誇張ではない。身近にマシンガントークをする人間がいる方には共感していただけると思うが、そうでない方には想像すら難しいかもしれない。そんな方にはとりあえずさんま師匠のしゃべくりをイメージしていただきたい。普段は明るくベラベラ一人で喋っているだけで、特に問題はないのだが、母は一度怒り出すと止まらない。そして、非常に厳格で神経質な部分があった。私が小学三年~中学卒業くらいまでの間、途中休憩のようなものはあるにしても、トータルで1~2時間は怒鳴り続ける日が少なくとも年に4~5回はあった。それは学校の保護者面談から帰ってきた日と、通知表を持ち帰ってきた日だ。私は軽度のADHD注意欠陥多動性障害)の不注意優勢型で、ランドセルの中はぐちゃぐちゃ、おどうぐばこの中身もパンパン、宿題を出さない、忘れ物はする、時間の観念が希薄、保護者へのお知らせプリントは永久に届かないことが常だった。役満である。そりゃあ怒りたくもなるだろうという気持ちもわかる。しかし、これは本人のやる気でなんとかなるものではないのだ。根本的なシステムを変えない限り、これらの問題は解決しない。発達障害に関する詳しい話は他のところでいくらでも読めるので、各々適当に調べてください。小学四年生くらいのとき、母に連れられて発達検査を受けたものの、確かに注意欠陥の傾向はみられるが軽度であると診断された。「グレーゾーンですね」という医師の言葉を、「よく言い聞かせればなんとかなる」と母は解釈し、ひたすら私を叱り続けた。そんな感じの子ども時代だったので、自己有用感は地に落ち、なぜか自己肯定感はそれなりにあるという奇妙なメンタリティのままここまで来た。後者が守られたのはこれもまた、おそらくは母の教育方針にある。(私にとって)理不尽に怒鳴り続けることは問題だったけれど、実際に改善しなければならない部分であることは間違いなかったし、むしろ愛情深く育ててくれたと思う。得意なことはめいっぱいほめてくれたし、毎日必ずご飯をつくってくれた。保育の仕事をフルタイムでこなしていても、ちょっと今日は忙しいから自分で買って食べて、ということはほとんどないに等しかった。そもそも幼いころは言って聞かせても仕方がない年齢だからといって、怒鳴られたことなんて一度もなかった。だからこそ、私は母のことを「怒りっぽいけど、模範的な良い親」だと評価していた。

 

 事の発端

 しかしその評価は私が高校三年生のときに大きく変化した。反抗期らしい反抗期もないまま、時折こっぴどく怒られつつ、最初に入った高校で数学ができなすぎて転校を余儀なくされるもやはりのんきに生活していたのだが、先述のとおり2020年6月ごろからうつの症状が出始めた。なんだか身体が重い、調子が出ない、いつにも増して集中力がない。決定的だったのは「死にたい」という気持ちが出てきたことだ。理由はなんだかよくわからないが、死にたい気持ちが四六時中つきまとった。母とはよく話していたけれど、あまり相談する気になれない。そもそも私のやりたいことや困りごとを訴えてもまともに聞いてくれた試しがない。せいぜい叱り飛ばされるか適当に流されるのが関の山だろう。父はそもそも母と比べて関係が薄く、とてもじゃないけど相談しようとは思えない。かろうじて、信頼できる年上の友人に話を聞いてもらうことはできた。その友人がいなければ今頃とっくに死んでいるか、さらに悪化していたことは間違いない。大きな負担をかけてしまって申し訳ない。この場でもお礼を言っておきます。

 夏休みに入ったというのに受験勉強に身が入っていないことを両親から咎められつつ、でも死ねば解放されるんだよなあとぼんやり思う日々が続いた。9月になって登校が再開した。終業時刻が過ぎても、十数分机に突っ伏して動けない状態になることがふつうになった。11月に入ったある日、通っている塾に行こうとして重たい身体を玄関に引きずっていくと、突然膝から崩れ落ちた。ギャグか?と思った。なんとか起き上がって靴を履く。仰向けに倒れる。涙が止まらない。こりゃだめだ、と思って塾に休む連絡をしようと思う。思うだけでできない。自宅には誰もいない。なんだか笑えてきて爆笑しながら大泣きする。匍匐前進で部屋へ戻ろうとする。うまく動けない。泣きすぎて顔がパンパンになっている。息苦しい。なんとか塾への連絡を済ませて、母が買い物から帰ってきた瞬間に絶望的な気持ちになったことまで覚えている。

 その後も地獄のような日々は続いた。受験、どうするの?大学行く気ある?行きたくないなら別の進路を考えてね、働くしかないと思うけど。その状態で働けるの?大学行きたいなら勉強しなよ、これからどうするの?ピーターパン症候群だ。いつまでも子どもでいられると思ってるんだ。両親からの詰問にあいまいに答え続ける。また怒られる。限界だと思った。本気で母を殺してやりたいと思った。とある日に母を思いきり罵倒した。少し静かになった。これでよかったんだ、早くこっちもこうすればよかったんだといまさらになって気づいた。父のリサーチの甲斐あって、得意な教科だけで受検できる入試形態の大学を見つけ、奇跡的に合格した。一般入試ではちょっとありえないくらいの勉強量だった。しかしその後もリモート授業になじめず、まともに課題をこなせず、とうとう大学一年の後期に休学した。半期休学後、とりあえず復学したはいいものの、あまり状況は変わらないままだった。そして二年生の前期、2022年6月某日、母ががん告知を受けた。余命一年と診断された。

 

 母の闘病生活

 なんだかお腹が痛い、また胃腸がやられちゃったのかも、などと言って病院に受診した母が、いきなりがんかもって言われた!と驚きながら帰ってきたのでええー!まさか!とはじめは半信半疑で大騒ぎしていた。しかし一週間後に再び受診した母が暗い顔で「お母さん、だめだった。がんだって」と私に言った。そこからはあっという間で、にわかには信じがたいから別のところで診てもらってくる、と他の病院に受診したらその場で入院になってしまった。母は家庭的保育者、いわゆる保育ママを十年以上続けていた。自宅で0~3歳の乳幼児を預かる仕事である。規模は小さいけれど、実質的に園長のようなポジションだ。そこに元来の我慢強さや責任感の強さも加わり、退院後は出来る限り在籍するお子さんを預かっていた。しかし、がんが発覚してから一ヶ月で一時休業を余儀なくされた。こんなに休んでばかりでは仕事にならないので、体調がもう少し安定したら再開する、という決定をした。ついぞ保育を再開することはできなかったけれど。

 抗がん剤治療が始まってから、母も例にもれず髪の毛が抜け落ちた。しかし完全に無毛になることはなく、拍子抜けした。個人差があるらしい。がんが発覚してから三ヶ月後、2022年9月に母と父と三人で名古屋へ小旅行へ行った。体調の波や、治療の合間を縫うようなスケジューリングだった。熱田神宮でお祓いをしてもらって、なんとなくすっきりした気分になった。このときになっても、私は母のことを許していたわけじゃなかった。一度本気で殺してやりたいと思ってしまったせいなのか、怨恨は根深く、がんになったことはかわいそうに思うけれど、怒鳴られた日にはやはりさっさと死んでしまえと思っていた。病気になったからといって、それぞれのパーソナリティや関係性はたいして変わらないものなのだ。

 年が明けて2023年になっても、母は相変わらずまずまずの状態を維持していた。ときどき一週間ほど入院しては戻ってくることを繰り返していた。4月末には新大久保へ遊びに行き、食べ歩きできるほど元気だった。しかしその直後に容体が急変し、5月の下旬に差し掛かったところで長期入院が決まった。

 

 最後の三日間

 入院中は基本的に面会は出来なかった。病院の方針で、コロナ対策を以前と変わらずにおこなっていたからだ。しかし、いよいよ危ないところに来たということで、面会が許可された。亡くなるまでの三日間だけ、私は病院に通った。以下の文章は日記から抜粋・一部編集したもの。

 初日はまだ私のことをはっきりわかっていて笑ってくれたけど、極端に痩せて目がぎょろりとしていた。一瞬私のことを認識していなくておや?と思ったけれど、存在を忘れているわけじゃなくて視力(もしくは認知機能)が著しく低下しているせいだったようだ。呂律が回らず、ゆっくりだったけれど、たしかにコミュニケーションができた。でも、明らかに脳機能へのダメージを受けていることがわかる様子だった。ショックだった。壁に患者の情報が出るタブレット端末が掲示されていて、母の名前と入院期間:25日と表示されていた。25日間でこれだけ弱っちゃうんだ、黄疸も出ていて頬も痩せこけて、唾が飲み込めなくなって。なんだか帰るに帰れなかったけど、母が「もういいよ、お家帰んな」と言ってくれたので、病室を出てきた。これでよかったんだろうか、もっと私がひとりで話すのが得意だったなら、よりよいコミュニケーションを取れたのだろうか、と思った。また明日も行かなくちゃ、それまで生きてくれるといいな、と思った。

 次の日、一時は「眠り薬を入れて、昏睡させる」ということになっていたけれど、安定したので取りやめになった。会話らしい会話もほとんどできなかった。はっきり聞き取れたのは看護師さんに言った「もういいです」のひと言だけ。前日は私のことがはっきりわかって笑ってくれたけど、この日はあんまり。苦しそうだった。時折う〜…と唸ったり、苦しそうな表情を浮かべていたけれど、私が帰るころにはもう眠っているように見えた。たぶん、あの言葉は「(延命は)もういいです、点滴外してください」という意味だったと思う。延命というほどの措置ではないと思うけれど、QOLは著しく損なわれた状態だ。オキシコドンと糖分のチューブ、それからカテーテル。あれだけガンガン痛み止め入れてまだ痛いなんてよっぽどだ。眠り薬にビビりすぎてちびるかと思った。でも数日中には、きっとそうなる。星になってしまう。悲しい。

 最後の日、午前11時くらいに電話がかかってきて、急いで病院に向かえと父が言うのでなるべく早く用意して向かった。これって危篤ってやつ?と思いながら、でも意外なほどおだやかな気持ちで電車に乗った。電話口の父の口調も落ち着いていたので、あまり危機感みたいなものは覚えなかった。「一般的に親の危篤には急いで向かうものである」と、実感の伴わない状態で思った。そこからずっと病室にいた。ときどき苦しそうにするので、手を握って話しかけたりベッドの角度を変えたりしたけど、あんまり変化がわからないままだった。せいぜい点滴を増量する青いボタンを押すだけで、ほかは明確に正しいと思えることはできなかった。大丈夫?いたくない?してほしいことある?なにか言いたげに声帯を震わせているときもあれば、苦しくて唸っているようなときもあった。意味のとおった言葉は聞き取れなかった。昼ご飯を父と交代で食べた後にはもう疲れてきちゃって、地獄だな、と思っていた。死ぬのを待ってるだけなんて。一度看護師さんが母の全身を拭いてくれたあとは、なんとなくすっきりしたような顔をしていたのでほっとした。何時だか忘れてしまったけれど、午後7時になっても8時になっても看護師さんが来ないので、不安だった。『おれの心がナースコールを押したがっている。』とツイートした。どうしよう、そろそろ帰りたいな、でもこんな状態じゃ置いていけないよ、でも疲れちゃったなって考えていた。今日は早めに帰って家片付けたいな、休みたいなって。午後3、4時過ぎくらいに胆汁が出てから、ちょくちょく胆汁を吐くようになった。横向きに寝ていたので口元にタオルを添えた。呼気があたたかかった。しまいには呼吸のたびにうめき声が漏れるようになった。あるとき声帯が全く震えない状態になって、怖くなってナースコールを押した。看護師さんは「脈がゆっくりになってきてますねー」と教えてくれた。それがどういうことかわかったようなわからないような気持ちで、でも声は聞こえるはずだから話しかけてあげて、とも言われたので大丈夫?いたい?ってそればっかり言ってた。えっこれやばい?って思って泣きそうになりながら父と声をかけた。ふと気がついて口元に指先を近づけても何も感じなかった。えっこれ死んでるの?それとも生きてるの?どっちなの?思っていたよりもずっと、生と死は近いものだと知った。はっきりした境界線があるものだとばかり思っていたけれど、「死んだ瞬間」は私には明確にわからなかった。外傷によって死ぬ場合と、病によって死ぬ場合とでは全く違うのだろうけれど。なにより、最後までとても苦しくてつらそうで痛そうだったのが本当に嫌だった。せめて痛くなけりゃ、苦しくなけりゃいいのに!って祈っていたのに最後の最後まで苦しんでいた、母はずっと痛みに耐えていた、こんなにひどいことがあるだろうか?私の願いは叶わなかった、おそらく。本人にしかわからないけれど。日に日に様子が変わっていく母を見て、ああ私のよく知っている元気で溌剌としたお母さんはとっくの昔に死んだんだって思った。そして、ちゃんと電話でお話ができた先週のあの日に、会話がぽんぽんできるお母さんは死んだんだと思った。面会が出来た初日のぎょろ目の母は別人だった。脳機能に支障が出ていることがはっきりとわかる、重病人だった。過去と現在は連続しているけれど、それでもまったくの別物だと思うようになった。怒鳴った日のお母さんのことは今でも大嫌い。威圧的で、支配的なお母さんのことは大嫌い。でももうそんな人はいなくなっていた。病気で弱ったお母さんになって、どんどん丸くなっていった。目の前の人を恨んでも、その人はもしかしたらもう反省しきって二度と過ちを犯さない人間になっているかもしれない。逆も然り。過去と現在を切り離して考えることができるようになった。時間は戻らない、それは救いだ。おとといもきのうも、もうどこにもない。だから大丈夫。過去と現在は連続しているけれど、それでもやっぱり違うんだ。(おそらく)死ぬ瞬間まで苦痛に耐えていたお母さんは、もういない。だから大丈夫なんだ。

 それから私は死体が「ご遺体、弔われる人」になっていくのを見た。丸裸にされて、体全体を拭かれた。「骸」だなあと思った。私とお父さんも一緒に拭いた。口の端っこが胆汁で汚れているのが気になっていたので、注意深く拭いた。おむつを外すとかなりの量の便が出ていてびっくりした。括約筋が緩みきっていて不思議だった。最終的に詰めものをしてもらって、残りの便が出ないようにしてもらった。「死後処置用」と印字されていてびびった。そのあと娘さんにメイクを…とか言われてさらにびびった。ふだんメイクしないんですよ〜つったら驚かれてそんなにか?と思った。全員が全員メイクすると思うなよ。そう思いつつ看護師さんに指南されながら最低限のメイクはできた。後日、叔母の力を借りてアイメイクをしてあげた。そのあと看護師さんに服を着せられて、腕を交互に重ねられて、だいぶ「知ってる死人」になってきた。その後は霊安室に運ばれて、すぐに安置所行きだった。「霊安室」の表示に興奮した。他にも遺族らしき人がいて、なんとも言えない気分になった。霊安室に運ばれたところで二箇所ベルトで拘束がなされていて、うわっ怖い!と思った。遺体が見えないのはかえって怖い。運ばれるときは顔まで白い袋に覆われて、死体袋が完成していた。まあまあホラー。でも安全性を考えたらこれが一番いいのは自明なので仕方がないと思った。霊安室の出入り口はアルミの自動ドアで、アニメでしか見たことねぇ!ってなった。あとスーツの上に白衣を着ている男性たちが運んでいったので、何?って思ったけどふつうに葬儀社のひとだった。しかも霊安室出るときには白衣脱いでたし、謎。なんで?そういう決まりなのはわかるんだけど理由がわからん。ふつうにスーツでいいじゃんね。「回診です」みたいになってた。関係ないけど、白衣の男性たちを見て、はじめに通っていた高校の性格がクソの化学教員を思い出して嫌だった。最後には出口まで葬儀社のひとが送ってくれて、受付の守衛さんに「〇階です」って言ってて興奮した。「遺族の方です」っていう意味が「霊安室から出てきた=〇階から」っていうことで、ローカルな隠語だ!!と思って……。あと地下の廊下の壁がボロッボロで趣深かった。良い……。身内が亡くなったからといって『喪』のモチーフの創作物が嫌いになるわけじゃないっぽいです。むしろ滅多に見られないところに行けて興奮した。

 帰りはタクシーで帰った。ご遺体メイキングの間は作業的だったので、一時的に悲しい気持ちは薄れていたけど、車内でどっとあふれてきた。悲しいっていうか、すごく怖かった。不思議なもので、恐怖が遅れてやってきたんです。そんなことあるのか?って感じだけど。とにかくひたすらに怖かった。母の、「あー」という声や、口を開けてまばたきもせずに横たわっている姿がこびりついていて、すごくすごくこわかった。でも、そのときに「過去と現在は、別物だ」ということに納得したので、それからは落ち着いた。家に帰ったらさらに泣けてきた。父が「お母さん、帰ってこられなかったね」「助けられなかった」なんて言うものだから余計に悲しくなってしまった。この日のこと、トラウマになっちゃいそうだなと思ったけど意外とそうでもない。でもやっぱり気分がいいものではない。『親 死にそう』でTwitter検索してもな〜んも同じ境遇の人間のツイートは引っ掛からなかった。マジで誰かと共有したかった…。

 

 その後、私と父の生活

 葬式も無事に終わって、少し時間が経ったところでどっと疲れが来た。あるあるなのだろうか。いまの生活自体は、母が入院しているときとほとんど変わらない。ただ、父がフルタイムで働いているので、平日は己の力で食べるものを用意しなければならないのだが、自炊ができないのと食への関心が薄いせいで体重減少が止まらない。苦肉の策で先日Discordに食生活監視チャンネル(私がきょう一日食べたものを報告するだけのチャンネル)を作成し、インターネット・フレンズに監視してもらうことにした。非常に助かっています。話を聞いてもらったりもして、たくさんのひとに助けられています。いつもありがとうね。こうして文章にまとめることも、一種のセラピーになっている。父とは必然的に会話が増えた。以前は母の独壇場で、父と私の二人きりになるタイミングも少なかったので、単純にコミュニケーションが不足していた。いまさら気づいたこととしては、父がかなり変な人ということだ。前から知っていたことではあるが、実感することが増えたのだ。突拍子のないことを言い始めるし、一部の陰謀論を信じ切っちゃってるので、今後の動向を注意して見守っていく所存である。助けて~!
 それから私は引き続き体調が最悪なので、治療をがんばります。もう少し元気になったら学業もがんばりたい。またなにか思いついたら記事にするので、読んでいただけるとうれしいです。それから現在学生の方は、いますぐに喪服をつくることをおすすめします。一式揃えて10万円くらいかかるところ、近所の青山で学割が効いて8万円ほどになりました。秒で買えたからほんとにつくっておいたほうがいい。8万でもなかなか大きいと思うので、もし親御さんに出してもらえそうならお願いしてみよう!無理そうなら最悪だれかに借りる準備をしておこう。人は…急に死ぬぜ!!

 

おまけ 母が高校時代に描いたまんが(5p)

勝手に投稿してメンゴ♪ テーマは「ファンタジー」だそうです