Taklamakan

ぐったりした日常の断片

日記のようなもの 2023/7/4

 ⚠︎亡くなった人間の生々しい話をしています。苦手な方、精神的に余裕のない方は本文を読まずにブラウザバックすることを推奨します。

 

 

 頭蓋骨のゆめをみた。なぜか自分の頭蓋骨が部屋に置いてあり、その近くに母の頭蓋骨を置こうとしていた。さらに魔除けとしてドンキに売ってるみたいな質感のお面も飾ってあった。ほんとは母の頭蓋骨なんて火葬でばらばらになっている。あんな綺麗なドクロマークになんてならない。焼く前は頬骨と上顎が出っ張って見えた。極端に痩せていたからだ。母は歯並びが良かった。


 死人の頭は重い。これは夢じゃなくて本当の話、最後に帽子を被せてあげようと思って叔母とせーので持ち上げたが信じられないくらい重たかった。一ヶ月以上抗がん剤を打っていないおかげでふつうに髪の毛は生えていたけど、それでも薄いことには変わりなくきっと本人は嫌がるだろうと思ってそうしてあげた。本当のことなんて知らない、死んでるから口もきけない。


 ふとした瞬間に母の不在を実感してかなりへこむ、何ターンも繰り返し被ダメくらう毒状態みたいな感じだ。元気なときはいいけれど、限界まですり減ったらそのまま体力がゼロになっちゃうやつだ。お線香もお鈴も私にとってなんの意味もない。だからべつに手は合わせない。ときどき写真に向かって話しかけるだけ。本人が遺影なんかいらんと言ってきちんとしたのを撮らなかったせいで、元はめちゃめちゃでかいオムレツみたいなやつを食べてる写真だ。うまいこと業者がトリミングしてくれて、胸までしか映ってないから、まさかこの下にふわふわのクソデカオムレツがあるとは誰も思わない。元の写真をみんなに見せたらひと笑い取れたのでこれでよかったと思った。


 死んだ人間はどこにもいない、ただ過去の偶像を見ることしかできない。生きていたとしても、それぞれが思うその人を見ているだけなのであまり変わらないともいえる。元気なときの母はとうの昔に死んだ。かろうじてお話できるときにお別れを済ませたので、出棺前に斎場で『最後のお別れを』と言われたときには当惑した。もうとっくにしたからいいですとも言えず、額に手を添えた。


 それでもやっぱり威圧的な母のいない生活はおだやかで、むかしよりずっと心が凪いでいる。プロセスは不健全かもしれないけれどあなたがそう思うのならそれでいいんだよ、と言ってくれたともだちがいるのでありがたかった。いつかこの一年のことと、母が亡くなる直前の話をまとめた文章を書きたい。メモだけは詳細に残してある。同じような境遇のひとに読んでもらいたい。「親 死にそう やばい」でTwitter検索してるようなひとのために。こんな断片的な文章を先に出してしまって申し訳ない。支えになるかはわかりませんが、そんなものかと思ってもらえたらいいな。がんばります。

 

書きました↓

yoshiumintyu.hatenablog.com